日経新聞に鳥畑与一先生

今朝の日経経済教室は静岡大学の鳥畑与一先生。

※日経のウェブサイトにリンクがありました。全文を掲載しておきます。

1980年代末以降、カジノが普及してきた米国では、カジノは経済問題として論じられてきた。特に米議会の「ギャンブル影響度調査委員会報告書」(99年)以降は、カジノの経済的利益の多面的評価や社会的費用を踏まえた総合評価を行うことが、新たにカジノ合法化を州で判断する際に常態化している。その際、大きな焦点になるのが「カニバリゼーション」(共食い、代替効果とも呼ばれる)をどう評価するかだ。

 カジノは、スロットマシンやルーレットなどのゲームを通じたギャンブルを提供する施設である。ギャンブルは、勝ち負けを通じた金品の移動のため、カジノの収益と客の負け金は差し引きすればゼロとなる。

 客は負けた額を他の支出から削らざるをえないため、カジノの収益増は周辺地域の購買力を吸収して商業売り上げを減少させる。カジノによる雇用や税収の増加も他方での雇用や税収の減少という共食いの結果というわけである。例えばニューハンプシャー(NH)州議会報告書(2010年)は、カジノによって50%前後の消費の代替効果が周辺地域で発生するという。

 ポール・サムエルソンは『経済学』の中でギャンブルについて「個人間の貨幣または財貨の無益な移転にすぎない場合がある。何の産出物も生まないのに時間と資源を吸い上げる。レクリエーションの限度を超えて行われる場合は国民所得の削減を意味するだろう」と指摘している。

 サムエルソンはレクリエーションと見なせる「友人同士の間で行われる適度の賭け行為」と、「実際にはお客が差し引き損をするようになっている」「職業的に経営される賭け行為」を区別している。ギャンブル産業への人的・物的資源の移動は、一国の生産性を低下させる浪費ではないのかということは経済学の一争点として議論されて来た。

 これに対して米チャールストン大のダグラス・ウォーカー教授らは、ギャンブルはサービス商品の一形態であり、買い手に支払額を上回る効用(消費者余剰)をもたらすと主張してきた。オーストラリア政府生産性委員会報告書(10年)も、消費者余剰を含めればギャンブルの経済的利益は費用を上回るとする。

 この論争は、ギャンブルはレクリエーションか否か、生産的営みか否かという問題に行き着く。依存症の程度次第ではレクリエーションの限度を超えるというのが一般的見方であり、実際、依存症の程度が高まるほど有害性への認識と罪悪感の比率が高まると同委員会報告書は指摘する。

 筆者の見解は、カジノはゲームの偶然性を利用して勝ち負けを競う場であるが、そこに金品が賭けられた場合はゲームからギャンブルに転じるというものである。ギャンブルはゲームを通じた賭け行為に本質があり、賭け行為そのものは金品の移動でしかない。賭け行為によってストレス発散や快感などの効用が生じたとしても、それは一国の豊かさをもたらしはしない。

 もちろんギャンブルは勝者と敗者間の金品の移動であるから、勝者のカジノ側には利益が発生する。カジノのギャンブルは、ハウス・アドバンテッジと呼ばれるカジノ側の取り分が設定され、客が賭けを長く続けるほど、大数の法則によって負けるように商品設計されているからである。

 このカジノ側の収益に注目すれば、日本におけるカジノ合法化は収益4兆円ともいわれる世界有数の市場を産み出し、投資や雇用、税収などの大きな経済的波及効果が生み出されるのは確かである。しかし、その巨大な収益は客の巨額の負け額の裏返しでしかない。年4兆円の収益のためには、日本の成人1億人が年に1回はカジノで4万円負けることが必要になる。

 カジノ産業側のプラスの経済効果は、その他の産業や地域におけるマイナスの経済効果を伴う。その両面の総合評価がカジノの経済的効果を判断する上で不可欠である。

 カジノの客が国内客だけの場合は、日本経済の中での共食いとなり、マクロ的にはプラス効果は期待できない。貯蓄をギャンブルに転じればプラスという指摘もあるが、それは将来の消費の先食いである。日本経済としてのプラス効果は海外客をどの程度獲得できるかに依存することになる。国際観光業の目玉としてのカジノが強調されるゆえんであるが、ゴールドマン・サックス証券は東京と大阪ですら3割程度の海外客しか見込めないとしている。

 筆者の見解は、日本はアジアにおけるIR(カジノを含む統合型リゾート)建設競争における最後発での参入であり、アジアでのIR間の共食い競争を激化させるということだ。中国人など海外客の獲得は困難であり、ほとんどが国内客となった場合、その経済効果は乏しいものになる。

 一方でギャンブル依存者は必ず増える。ギャンブルの危険性は、ギャンブル経験の頻度、継続時間、快感と喪失感の大きさに規定される。1日24時間365日休みなく営業され、短時間で繰り返し可能であり、賭け金額の大きなカジノは、他のギャンブルと比較しても依存症を誘発する危険性が高いとされる。

 さらに、カジノの収益は客が賭け続けることで保証されるため、カジノは客が賭けに熱中し「全てを失う」まで賭け続けさせる技術の集約とされる。カジノ収益の大半はギャンブル依存者に依拠しているともいわれる。

 ギャンブルの頻度はアクセスの容易さによるため、カジノができればその周辺住民のギャンブル依存者は増大する。米国ではカジノから50マイル以内の依存者率は域外の2倍になったという。

 ギャンブル依存者の増大は様々な犠牲と社会的費用を増加させる。例えば、労働生産性の低下、不正な資金取得、高利貸からの借金と家庭崩壊、職業の喪失、心身の病気と犯罪の誘発などである。こうした社会的費用は計量的計算が困難であり、様々な推計があり、また何を社会的費用としてみなすかについても論争がある。

 米ベイラー大のアール・グリノルズ教授は、病的ギャンブラーには年間1万ドル以上の社会的費用が発生し、それはカジノの経済的利益を大きく上回っているとする。これに対してウォーカーは、社会的費用は社会全体としての富の喪失をもたらすものに限定すべきであり、賭け金の不正な取得は資金移転でしかないので社会的費用に含めるべきではないとする。

 ニューハンプシャー州はウォーカーの見解を踏まえて保守的に推計しているが、それでも病的ギャンブラーは年間5千ドルの費用を発生させるとする。正確な費用推計は困難でも、ギャンブル依存症増大による犠牲と社会的費用が増大することは確実であり、それを無視して経済的利益のみを強調するのは誤りである。

 またカジノによる集客が地域振興に直結するとは限らない。米アトランティックシティーのカジノは年間3千万人以上を集めてきたが、人口4万人の町は地場産業が衰退し、貧困率が州平均の3倍という貧困地帯のままである。カジノ収益を元に宿泊・飲食などの料金サービスを大規模に行い、客を囲い込むのがIRであり、地元経済が甚大な打撃を受ける可能性が高い。

 現在、米国ではカジノ依存の地域振興策の行き詰まりが顕在化している。カジノの短期的・一面的な経済的利益のみを強調してカジノの合法化による危険性を看過すれば、一国の政策決定がまさに偶然性に賭けるギャンブル以外の何物でもなくなってしまうのではないだろうか。