石井穣『古典派経済学における資本蓄積と貧困』青木書店、2012年。

古典派経済学における資本蓄積と貧困―リカードウ・バートン・マルクス

古典派経済学における資本蓄積と貧困―リカードウ・バートン・マルクス

 いまどき、古典派経済学の学説史的検討なんてはやらない。一昔前であれば、リカードやスミス、マルクスの学説史的検討は学問上の重要なイシューのひとつだったが、新古典派経済学が主流となった現代経済学では、あまり注目されないし、その意義も紹介されていない。経済学説史については専門分野ではないが、評者にはそのように感じられる。この著作は、そうした学問上の短期的なブームに真っ向から対峙し、リカードからマルクスに至る労働価値説の展開を、特に「忘れられた経済学者」ジョン・バートンに光を当てて分析した労作である。一般的にマルクスが、労働力と機械・原材料などを区別し、前者は生産過程で価値を生むので、可変資本、後者は過去に形成された価値を移転するだけなので、不変資本を概念上区別したことはよく知られている。そして、個別資本は競合資本と価格競争を繰り広げるために、労働生産性を上昇させ、総資本に占める不変資本の割合を相対的に増やしていく傾向にある。この状況をマルクスは資本の有機的構成の高度化と呼び、資本蓄積に伴い比例的に賃金が増えるのではなく、資本にとって余計な相対的過剰人口が生み出されると結論付けた。これがかの有名な資本主義的蓄積の一般法則である。
 本書によれば、リカードはそうした把握に揺れがあった。可変資本が価値を生むのか、不変資本が価値を生むのか、こうした概念上の区別には達していないが、スミスのように資本蓄積に伴い比例的に労働需要が上がっていくという認識はかすかながらもっていた。それに対し、バートンはそうした把握を一層発展させ、マルクスの相対的過剰人口論に近い認識を示している。

  • 「バートンは、リカードウからの手紙の中で展開された理論的反駁を一応受け入れながら、それでもなお機械導入は労働者階級にとって不利益をなることを示そうとした」(117頁)
  • 「バートンは、資本蓄積の有無にかかわらず、機械導入は労働需要を減少させ、労働者に不利益をもたらすという立場であった」(同上)。
  • 「バートンは、資本蓄積にともなって機械が導入され雇用機会の増加が抑制される場合、また労働集約的な生産方法のもとで雇用機会が急速に増加する場合のいずれの場合も、労働者階級の状態は改善されないという認識に到達している」(153頁)。


 こうした機械導入が労働者階級に及ぼす影響を、理論的なぶれや軸をみながら丹念に追っているのがこの著作である。「企業収益の増大が国民生活の豊かさをもたらすのか」、という問いは、きわめて今日的な問いである。とくに先進資本主義国では、グローバル資本の展開が、国内産業を空洞化させ、国内消費の冷え込みとGDPの縮小をもたらしている。現状を問う意味でもこうした丁寧な学術書が広く読まれてもいい。