熟練の社会的評価(生産性VS賃金、処遇)

『日本労働社会学会年報』第6号(1995年)に「熟練概念の再検討」(執筆者は山下充氏)という論文がある。2006年に論文を書いたとき、参考に読んだ記憶がある。たまたま引っ張り出して見てみる。内容は大枠次の通り(自分の解釈も入っている)。*専門家には周知の事実だと思いますが、個人的メモということでご容赦ください。


1.小池−野村論争の熟練概念を検討し、両者の主張に、熟練が社会的評価や職業と結びつくドイツとそうではない日本との区別があることを指摘している。両者に共通するのは、「労働者の熟練が生産性に貢献する仕組み」「生産の構成要素としての熟練」(118頁)であると指摘している。

2.こうした文脈から少し離れ、熟練が社会的に構成されるとする労働過程論の議論、ジェンダー論の議論を紹介する。熟練の社会的構成論は、「特定の職業集団が社会的制度(徒弟制、クローズドショップ制など等)を活用して社会的閉鎖性を構築することで、自集団の利益を擁護する過程に注目」(123頁)する。制度的熟練が存在している社会では、誰が熟練労働者かという問題が、常に社会的な取り組みとして解決されていると主張する。

3.要するに熟練に客観的な指標は存在せず、あるとしても特定の利害や目的(コンパラブルワースなど)のために社会的に形成されるのが技能そのものである(*付言すれば、『資本論』ではこの種の熟練・不熟練について客観的に決まることの限界への言及がある)。だから、熟練は生産性の面から見てもたんに個人の能力という問題だけに還元することはできない。

「企業社会」の中の女性労働者

「企業社会」の中の女性労働者

以上の論文の内容を自分なりに敷衍すると、これまでの「熟練」論は、野村にせよ、小池にせよ、生産性の問題からのみ接近をしていた。日本的経営ブームという時代的背景もあるだろう。対照的に、この論文で主張されるのは熟練論の他の要素との結びつきである。特に、処遇に関わる事項(賃金、労働組合)などが重視されている。

これは、欧米における「熟練」の扱いと、日本におけるそれの違いが、労働市場の昇進、昇給、処遇構造の違いとなって表れていることを間接的に示しているように思える。すなわち、欧米社会(特にドイツなど)では、「熟練」が社会的に形成される(マイスター制度など横断的な資格制度の発達)ことで、熟練・不熟練の職種の違いが成立が成立し、そのもとで職種ごとの職務賃金(単一レート/範囲レート)が成立する。いわば、「熟練」を基軸として賃金、処遇システムが確立する。

それに対し、日本では、熟練による労働組合規制の不成立、組合による生活保障給の要求、経営側による能力主義を加味した「年と功」賃金による妥協により、職能給制度が広範に成立した。社会的な熟練は存在せず、企業特殊的な熟練のみが形成された。これを小池は知的熟練により説明し、ベッカーらは企業特殊的熟練から説明した。

2006年の論文では以上の点にほぼ無自覚であった。もちろん、論文では、「熟練」を労使間のパワーバランスとして「論証」したことが成果のひとつであるが、より踏み込んで労働組合の職場規制、職務の価値の決定、賃金の決定までつなげることは意識していなかったといってよいだろう。これから考える賃金論では、職務給か生活保障給かが論点となっているが、込み入っている点は、日本の賃金が「年と功」賃金であり、生活保障給であるという点である。生活保障給を維持しつつ、職務給をとる方向性か、それとも福祉国家への道を模索するか、いずれにしても方向性は非常に難しいものがある。

きちんとつっこんで文章を書きたいなあ。