ゼミについて

いやはや久しぶりの日記である。GW前後が怒涛のように過ぎて、4月の出来事が思い出せないくらい。時が流れるのは早い。以下、やや長めのメモを書きます。論文ではなく現時点で自分が考えていることです。

今年からゼミを受け持ったわけですが、2・3年生と1年生ではやり方を少し変えております。2・3年生はテキスト指定をして、要約を作らせ、発表してもらい、司会者をつけて議論をしてもらう方法。1年生はテキスト指定はせず、各自の関心ごとにグループを作ってもらい、グループごとに研究を進める方法。いずれも試行錯誤状態で、日々「おっ」と思うことと、「んんん」と反省することと両方であります。
伝統的なゼミのスタイルはテキストをがっちり読んで、古典的な名文を読み解くというやり方。私もこのゼミのスタイルで大学院はずっと訓練を積んできました。このやり方は、いい文章を読むことで「論理的」に要約することを学べること、良い文章を要約することは、良い文章の書き方を知れることにあると思います。
一方、この方法はテキストの意味が教員と学生で共有されていないと、学生の方は意味づけが分からず「やらされている感」が残るというデメリットがあるでしょう。本当は、「そんなのすぐわかるわけねーだろ」「数年後にその意味がわかるんだ」という感じで、強引に進めるやり方もあるわけですが、学生の「やりたいこと」と「学問」の溝を埋める作業がなければ、ディスコミュニケーションに陥ってしまうわけです。
その点では、各自のやりたいことを調べる方法は、「やりたいこと」がはっきりしていればいるほど、モチベーションは高いわけですから、学生の取り組みは必然的に熱心になります。もちろん、「やりたいこと」が見つからない学生も少なからず存在するわけですが、身近な例から出していけば、全く関心がないという学生は多くないと思います。このやり方は、「やりたいこと」がともすれば、非常に身近な事例にとどまり、社会的意義が不明であったり、学問的にはまったく瑣末な問題だったりすることにあります。また、学生の関心は途方もなく広いわけですから、教員は自分の専門領域以外のことについてもコメントをする必要があります。
現段階での私の取り組みは初年度は、さしあたり「やりたいこと」を手がかりにレジュメ作成の方法、発表技術や資料収集の方法を学び、勉強の仕方がまがりなりとも身につけた後で、「テキスト」指定による「学問」に近づくという方法に焦点を当てています。まだできていませんが、「テキスト」の理解を通じて、今一度「やりたいこと」に戻り、見つめなおす。そうすると「学問」と「やりたいこと」の距離感が分かり、「学問」に対する「知的好奇心」が沸くのではないか、というのが数カ月の取り組みでの直感です。この往復作業をコーディネートし、必要に応じて「やりたいこと」と「学問」の間のギャップを埋めるべくアテンドする。これが、少なくとも学部ゼミの運営時に大学教員に求められる資質ではないかと思います。

どちらがいいいかは一概に言えませんし、学生の持つ学力レベル、大学の性質によって代わってくると思います。ともあれ、現段階の私の取り組みと考えは以上の通りです。皆さんはどう考えるでしょうか。